世界最高水準の研究力をめざす大学を国が大々的に支援する制度ができた。それに対する大学側の意見は様々だが、私はその中で鹿児島大学の「『山』に例えると、研究の裾野を広げるより、頂上を高くするように働く」との指摘が最も言い得て妙だと思った。
たとえば幼児が砂遊びで砂山を高くしようとする時、最初は頂上に砂を盛り続ければ良いと考えるが、ある高さになると山は全然高くならず、折角盛った砂も裾野にこぼれてしまうことに気付く。そして彼らは山の斜度が重要であったり、表面に水を掛けて崩れにくくすれば良いのではと考えたりする。
そもそも大学の本来の役割は、国民に対してこのような科学的見地を養う手助けをすることであり、大学が稼ぐことは二の次だと私は考える(長いスパンで見据え、結果的にペイ出来ればそれで十分かと)。それに誰が何処で革新的発明をするかは判らない。ならば国としては、一人でも多くの国民を大学人に育て上げる方がスマートなはずだが、彼らは世界に冠たる大学がいくつか出来ればそれで良いらしい。
まぁ幼少時から英才教育で厚遇され、野良猫の糞が混じる公園の砂場で遊んだことのない人々ならそういう発想になっても不思議ではない。しかしそんな人々が砂山を少しでも高くしようと躍起になるからこのような愚策が法制化され、折角の税金が無駄に浪費され、国は益々衰退するのかもしれない。