2020年12月28日月曜日

「クララの意気地なし!」

膝の痛みは最高潮で、これまでは曲げると痛む程度だったのが、何もしないでも痛むようになった。
そしてこの日(2020年12月28日)は外来での初めてのリハビリだったので理学療法士の先生に訊ねてみたが、この時期は色んな要素が絡み合うので理由は不明とのこと。
また膝は入院時よりも曲がりにくくなっていたが「退院して間もなくは日常生活のおかげで筋肉が付くので入院時より曲がらなくなる」とのこと。
ところが実際の私は、この一週間リハビリらしきことは何もしなかったので、この不調は益々私を不安にさせた…。

さらには、今日から右脚に全荷重を掛けても良いとのことだったので、平行棒を頼りに二足歩行に挑戦したのだが…

絶対に無理…

そんな時にはふと、表題のような叫びが聞こえてくるはず…だったが、今回はこなかった。
それどころか、肉体的な痛みと精神的な不安、更には母からも心無いことを言われて傷付き、正月の間もずっと不貞腐れて布団に潜り込んでいた。



今まで生きてきた中で一番ひどい正月だった。







2020年12月26日土曜日

走れなくなって初めて分かる走れることの有難さ

今回の骨折事故が起こる直前のそのまた直前まで、私は自分の脚はかなり頑丈な方だと自負していた。

特に私がトライアスロンを始めた2008年から佐渡A初挑戦の2009年にかけては、距離だけで言えばプロ並みだった(負荷は全然だが…)。
ピーク時はスイム30km、バイク1,000km、ラン300kmを月間目標距離とし、実際それに近い形でクリアしていた(通勤バイクなども含めれば達成できた月も何度かあった)。
当時はこれだけ走っても膝痛などは殆ど感じなかったし、ジョグノートなどでも周囲からチヤホヤされ益々天狗になっていた。
※その当時ジョグノートの中に3種目の距離数を競い合うコーナーがあって、そこでは常に上位をキープしていた。もしもご記憶の方がいたら非常に光栄です(ペンネームは「イトーちゃん」または「ベジ太郎」)。

そして幸か不幸か、佐渡A初挑戦は、あまりにも短期間(1年9ヶ月)、且つ予想以上の好成績(12時間13分50秒)で完走できたためにその自負心は最高潮に達し、むしろそれ故にトライアスロンへの情熱は一気に冷めたのだが、その後も四国の歩きお遍路を28日間で踏破したりして、その自惚れが減退することはなかった。

そんな天狗状態の中での今回のキノコ狩りだった。
佐渡A初完走の時からは格段に足腰も反射神経も衰えている自覚が全くなかった。
今回の道案内役の翁は狩猟歴数十年の超ベテランで、もう一人の知人も狩猟歴は3年位ながらシーズン中は毎日のように山に通うつわものだったが、私には二人にはない健脚があるとその日も自惚れていた。
実際はそんな彼らに狩猟歴3回の私がついていけるはずがないし、最低でも謙虚な気持ちで慎重についていくべきだった(と後悔したのは、ヘリの救援を待っている時だったが…)。
※それにあの日は、日常生活の中での色々な気の迷いや、帰宅してからやるべきことが多々あり、あまりストレスの感じることのない自分にしては頭の中が結構混乱していたせいもあった…。

えにぃうぇい

何度も言うが、こうなったら仕方がないという心境で今は何とか持ち堪えている。
毎晩必ず就寝中に痛みでうなされるが、それも「痛みはまだ生きていることの証である(←どっかの映画のセリフ)」と言い聞かせている。
ぶっちゃけ、ぶつけたのが膝ではなく頭だったら死んでいたかもしれないので、それだけでもラッキーである。

それに、この事故がなかったら糖尿病を克服しようとは絶対思わなかった(多分今でも毎日酒を呑んでいた)。
この事故がなくても糖尿病による合併症で脚を切断していたかもしれないし、失明していたかもしれないし、それは何某の言う通り「神のみぞ知る」だ(忖度大臣や御用学者にそう軽々と「神」などと言って欲しくはないが…)
とにかくデブをリードする男になっていたのは間違いない。

こんな感じで戯言を書いていると、ふと気障な文句を思いついたので下に記す。

今日走らない理由は無数に思いつくが、明日走れなくなる原因はそう多くない。

「今日は寒くて…」とか「二日酔いだし…」とか、私も佐渡A初完走後はいろんな理由で走るのを止めたことが無数にある。
しかし、こうして走れなくなってからは、走れる(と言うか普通に歩ける)有難さを骨身(←特に右大腿骨)に染み入るくらいに痛感している。

もし皆さんの中にもそんな悪魔の囁きが聞こえてきた時には、こんな男がいることを頭の片隅に思い出して頂けたら非常に光栄である。

Happy holidays and new year!

2020年12月25日金曜日

Vostro15(3568,Cerelonモデル)のHD交換

2018年の誕生日に¥24,818で買ったモノだが、よりによって入院中にHDが逝ってしまい…。
このPCは値段が値段だけにHDやメモリ交換を前提にしておらず、内臓に辿り着くまでに30本位のビスを外したりする必要がある。
御開帳


今年は骨折でかなりの出費がかさみ、且つ賃金収入も全てキャンセルになったので節約できるところは節約しなければならず、代わりの脳みそは↓になった。

スピードテストは↓の通りで、手術も成功し、結果オーライな買い物となった。
特に書き込みは宣伝以上の効果を発揮している。


追伸
「私の右脚もこれくらい簡単に取り換えることができたら」と、今現在も膝をさすりながらこの日記を書いている。

2020年12月24日木曜日

退院して分る病院の有難さ

入院生活最後の2週間は看護師さんの手を借りることは殆どなかった。
血糖値も自分で計っていたし、その値を自分でナースセンターまで報告しに行くことさえあった。
なので、退院しても困ることは左程ないと高をくくっていたのだが…
入院時は↑のような余裕もあった…


いざ退院してみて病院が一番有難く感じたのはトイレの隅まで暖かい住環境だった。
ちなみに私は入院中は半袖半ズボンで過ごした時もある位の暑がりなのだが、自宅に戻ってからはフリースを2枚重ね着をしたり、就寝中はミイラ型シェラフを持ち出すなど創意工夫している。
また入院中は起床後に電気ケトルで沸かしたコーヒーを飲みながらマッタリと超音波治療をしていたが、今ではようやく部屋中が暖まりだした昼頃に泣く泣くズボンを下げているような状況である。
さらには自分でメニューやご飯の量を選べない不自由さを感じていた食事も、母や義姉に頼らざるをえない気まずさと窮屈さのため、違った意味で不自由さを感じている。

映画「ショーシャンクの空」で、出所後の生活に馴染めず、寧ろ刑務所の方が居心地が良いと感じたレッド(モーガン・フリーマン)の気持ちがちょっとだけ理解できた。

追伸
退院後の一番の念願だった猫との暮らしだが、さすがに2ヶ月以上も疎遠だと完全には慣れてくれず、たとえば折角ソファーで隣に寝そべっていても、私が松葉杖を持ち出そうとしただけで即座に隣の部屋に逃げ去ってしまうような状態なり。
せめてもの救いは、就寝中は一緒に寝て湯たんぽ代わりになってくれることかな…。

2020年12月23日水曜日

楽天モバイルの神対応?

私の今の自宅は散在集落であり半径約100m以内に隣家はない。
なので母の話によると、電気などの公共インフラは町の中でも一番最後の方だったらしい。

ところが、楽天モバイルのサービスエリア地図を見ると、私の自宅の周りだけが「2021年2月末」の楽天回線拡大予定エリアに入っている。
ちなみに町の中心部は「2021年春以降」と後回しになっている。

私は自他共に認めるケチ男で、楽天カードと楽天銀行は持っているものの、買い物はあまりしないし預金残高も雀の涙だ。
ただ人口7千人位の過疎な町なので、楽天モバイルを所有しているのは恐らく数人(多くても数十人?)だろう。
故にもしそれだけの理由で、私の自宅近くにアンテナを優先して建ててくれたとしたら、それはそれは神対応と言わざるをえない。
まぁ単なる偶然かもしれないし、実際はアンテナさえ建ててくれないかもしれないけれど…


2020年12月22日火曜日

N-FORCE SP260R

これまでGentos製品を使用していたが、電池ボックスの爪部分の破損と断線で数年ごとに買い替えさせられたので、コチラをお試し購入。
使い勝手などは後日…



2020年12月21日月曜日

退院

本日(2020年12月21日)、冬至、大安の日に退院するはこびとなった。

偶然月曜日が手術後○週間後の基準日であり、且つ主治医の担当日でもあっただけで特別良いお日柄を選んだわけではないが、「これ以上太陽は傾かない」という意味では希望が持てる気がする。

ただ一番最初に申し上げた通り、正常な骨格に治る可能性は未知だ(敢えて少ないとは言わない。希望だけは捨てないし、治らないなら治らないなりの形で走るつもりでいる)。

現状、右膝は50度(押してもらって70度)までしか曲がらずリハビリ用のエアロバイクにすら乗れない。
と言うかまだ全荷重は掛けられない状態(全荷重は来週から)なので、折角だから本格的なリハビリは来年からと考え、今年いっぱいはマッタリしようと思う。

それに、私の目標は60歳(約10年後)でのロングディスタンス完走であり、それ以上は望むつもりもないし、まぁ望める状態でもないのだから...。




右ステップのない車椅子


2020年12月20日日曜日

念願の一時帰宅(のはずだったが...)

それまで不運続きだったのが、11月の後半から少しずつ持ち直し始めた。

右脚の腫れは治まっていくのが自分の目でも判ったし、血液検査の結果も良好と出た( 膝だけは未だ腫れている...)
時折襲ってきていた高熱もほぼなくなった( コチラも膝の火照りだけは未だに続く...)
ドレーンが外れた18日から即リハビリを再開し、翌19日からは超音波治療も始まる。
簡易装具の装着とインスリンの投与は11月25日で終了(投薬は今も続く...)。


そしてついに、11月26日には念願の一時帰宅が許可された。

一時帰宅がなぜ念願なのかと言うと、私はキノコ採りの山中から消防隊のヘリで直接病院に搬送されたからだ。
普通はどんなに突然の病気で緊急搬送された人でも帰宅時の着る物(パジャマとか)くらいは持っているはずだが、私の場合ズボンはハサミで裁断されてしまったのダ(まぁ家から持って来てもらえば良い話だが...)。
また部屋にあるモノを頼んでも、母はガジェットの名称が分からないし、兄貴は真剣に探してくれないので一向に埒があかない(コレは経験すれば解るが結構シビア)。
それに何より、猫との再会が帰宅の最大の目的だった(友達のいない私には猫との別れが一番の苦痛)。

はぅえば~

簡易装具をはずしてもらったばかりで逆に左右のバランスがおぼつかない。
そして松葉杖で段差を越える練習をしなかったことが決定的な失敗だった。
ちょっとした段差も越えられないのである(ケガをする直前もコレ位の用心深さがあればとふと思ったが...)。
6週間振りのシャバの空気は頗る気持ち良かったが、如何せんこの状態では仮出所さえままならないと痛感する。

これには実は伏線があって、私が余りにも「退院したい」とせがむので、主治医は「どうしてもと言うなら仕方ない」という感じで退院が許可されていた(つまり試し退院の意味もあった)。

そんな風にして、11月末での退院という希望も泡と消えてしまったのであった。

猫に再びの別れを告げ、兄に頭を下げて病院まで送ってもらいトボトボと病院に戻ると、聞き慣れたナースコールが至るところで響き渡り、糞尿の臭いが漂ってきた(この病院は寝たきりの高齢者が殆どなので...)。
「もう少しの辛抱」と自分に言い聞かせ、ベッドに頭からスッポリ潜り込みたい気分だったが、当然ながらそんなアクロバティックな動きは右脚が許してくれる訳もなく...。


デブリードマン手術後(我慢の2週間)

抗生物質の点滴は11月1日から強いモノ(メロペネム)に代わり、且つ頻度は1日三回(これまでは朝夕2回)に増やされた。
何よりキツいのは3回目の注射が深夜12時なこと。
(まぁ見ることはなかったが)どんなに気分の良い夢を見ていてもおばさん美人ナースのやさしい声で叩き囁き起こされるのだ。そんなミッドナイト・コールは約2週間(1月12日まで)続いた。

1日に3回の点滴と4回のインスリン。右足には3本のドレーンが埋め込まれ...
もう立派な正真正銘の入院患者なり。

えにぃうぇい

ドレーンが外れたのは11月18日で、デブリードマン手術からそれまでの間にベッドを離れたのは大きいトイレの5回だけ。
看護師さんに「糖尿病克服のため歩かせて」などとリクエストしても却下されるだけなので、コチラも徹底的に塞ぎ込んでいた。
冷静になって振り返れば、当時は再感染が一番の心配ネタだったので看護師さんの縛りは至極全うである。しかしながら当時の私も再手術の不条理や再感染の怖さ、入院暮らしのストレスなどで全然余裕がなかった(言い訳だが…)。

そんな感じで11月の前半は我慢と忍耐の日々であったと振り返る。
ただそのおかげで「戦争と平和」を読了できたのは少ない収穫だったかも…。

もし苦しみがなかったら、人間は自分の限界を知らなかったろうし、自分というものを知らなかったろう。
~レフ・トルストイ「戦争と平和」

2020年12月19日土曜日

デブリードマン手術

 デブをリードする男ではない。デブリ(塵)の方である。
ちなみに私も入院直前はデブになりかけたが、病院の規則正しい食事と糖尿病の治療も並行したためBMIは20.6まで落ちた。まぁそのぶん筋肉もかなり落ち、トライアスロンをしていた男には全く見えない状態でもあるのだが...。

閑話休題...

大まかに言えば化膿部の除去手術(詳しく知りたい方は↓参照)

手術日は2020年11月6日
私の場合は(メスも入れたかもしれなが)メインは高圧水流だった(と思う)。
麻酔は前回と同じ下半身のみで、尿道に管を刺され嫌~な気分になる。
手術は主治医とM先生の二人で進められ、最後の方で院長先生に立ち会っていただいた。
時間もトータルで約3時間なので前回よりはストレスもなかった。
ただやはり、骨折の開放部を更に切開し(結果は約10針に広がる)、また前回の手術でプレートを埋め込むために切開した部分(約30針)を再切開しなければならないのが悔しかった。
さらには、再度化膿した場合に備えて膝関節などに3本のドレーン(管)が埋め込まれ、その受け皿として手押しポンプで体内の膿を吸い出す容器を背負う羽目になった(容器は弁当箱位の大きさなので、実際は背負うというより肩に掛ける形)。
つまりベッドから離れる時はこの3つも携行しなければならず、その後の約2週間は今まで生きてきた中で一番不自由だった。
特にトイレについては看護師さんに「小便は尿道から管、大便は簡易トイレ」と言われたが、それだけは断固拒否した。
※結局、小便は尿瓶、大便は移動時のみ看護師立ち会いという話でまとまったが、その前後から私の理屈っぽくて頑強な性格が発揮され、多くの看護師さんを困らせることになった(海より深く反省)。

ただ、術後の痛みは前回ほどは長引かずに済んだのが唯一の救いで、最初の数時間は傷口の焼けるような痛みで喘ぎ声と寝返りを終始繰り返さないとダメだったが、早々に筋肉注射をしてもらったら間もなく眠りに就くことができた。
今から振り返ると「今まで生きてきた中で二番目に痛い夜」ではあったが、「人生の苦しさ」という観点から言えば、初恋に破れた時よりもマシな気がする(今回はオチがなく悪しからず...)。




2020年12月17日木曜日

忘年会

 このご時世に菅首相が多人数で会食をしたというニュースも甚だ問題だが、私はそれより、その批判を受けて忘年会を急遽中止した政治家たちの方が罪深いと考える。
 なぜなら彼らは、菅首相の会食が問題が発覚しなければ、何の呵責も感じることなく普通に忘年会を催していたはずだからだ。国民がなぜ憤怒しているかさえ理解できない人さえいるような、それ位に私たちとはズレているのである。
 皆さんの中には今年の忘年会は企画すらしなかったという方々もおいでであろう。そして恐らく「中止もやむなし」というのが大方の見解かと思われる。それだけ耐え忍んでいることを、まずは政治家の先生方には理解していただきたい。そしてコロナに限らず、あらゆる面での一般庶民とのズレを改めて見直し、今後の政治活動に勤しんでいただきたい。
 そうした上でなら銀座で豪遊しても、私たちもそんなに目くじらは立てないだろう。無論、国民とのズレを真摯に受け止められたら、政治家でいられること自体に引け目を感じるはずだと思うが… 

2020年12月16日水曜日

骨折開放部から化膿

2020年10月20日 
今まで生きてきた中で一番苦しかった夜が明けた。
昨夜までの膝が引っ張られるような痛みも治まり、そして何より物理的に膝が牽引されていない解放感が嬉しかった。
これで車椅子なら移動はできるし、ベッドで大便をする恥辱からも開放された。
そして早速この日からリハビリも始まり、再起に向けて気分も上々だったのだが...

何日経っても腫れは治まらず、39℃超えの高熱で夜中にシャツがびしょ濡れになることも度々あった。
主治医の話では開放部が化膿しているとのことで、その後しばらくは点滴での快方を試みたが、MRIの結果、感染は広がっていると判り、洗浄手術(デブリードマン)をすることになった。

この宣告に気分はズンドコまで落ちた。
とくに、折角治りかけた傷口を再度切開するということが解せなかった。
(くどいようだが)今まで生きてきた中で一番苦しかったことをもう一度しなければならないことも苦しかった。

おまけに...

自宅から持ってきてもらった本が全部既読のモノ。
ポータブルラジオもすぐに電池切れ。
Bluetoothイヤホンも充電できない状態でスマホで音楽も聴けず...。
(元々調子が悪かったのだが)ノートPCもその数日後に臨終した。

実家から別の本と換え電池を持ってきてもらうまでの数日間は天を仰ぐしか術はなかったが、見えるのはヒジキがばら撒かれたようなジプトーンの天井模様と、点滴などを吊るすカーテンレールだけだった。



2020年12月14日月曜日

右大腿骨骨折観血的手術

 正式には表題のように言うらしい。
 
施術日はケガから4日後の10月19日。
これで時折襲う痛みや就寝中の悪夢から開放されると期待できる反面、手術室に入ること自体初めてだったので一抹の不安もあった。

麻酔は半身だけだったので施術中の内容は全て見られた。

麻酔の骨髄注射は独特な痛みだったが、その後麻酔が切れるまでの数時間は久し振りの安寧なひとときだった。
※もうひとつ、尿道に管を通すのも(痛みというより)気持ちが悪かった。

手術には病院常駐の三人と、プレートやスクリューについて彼等に助言していた非常勤(?)の総勢4人のドクターに施術して頂いた。
※この頃から私のケガは...かもと思うようになった。

看護師から施術中に音楽も聴くことができると言われたのでクラシックをリクエストしたのだが、内容が「久石譲ベストセレクション」みたいなモノだったので興醒めした。
その代わりといってはなんだが、ドクター確認用のX線モニターを私も盗み見できる状態だったので全然退屈はしなかった。
プレートを留めるビスの位置や、遠位端へ打ち込むビスの長さなどを4人で侃々諤々し合う姿は私を非常に勇気づけてくれた(なにせ4人もの先生が私一人の右足一本のために議論してくれるのだから...)。

手術そのものは3時間(準備や片付け時間も含め4時間)位だったと記憶している。
ただ最終盤に、血止めのための太股のゴムバンド部が痛くて仕方なかったのと、何故か全身から汗が吹き出してきたのが気になった。

病室に戻ると、待合室で兄夫婦と母が待っていてくれた。
ケガ当日は母からバカだバカだと散々悪態をつかれたが、さすがに今日は心配してくれていたみたいで歯痒く切ない気持ちになった。

病室に戻って間もなく、呂律が回らない位まで身体が震え出しかなり焦ったが、震えそのものは30分位で静まった。
しかしその後、ずっと脚を引き摺られるような痛みと、猛烈な喉の乾き(麻酔が切れるまでは水分補給もタブーとのこと)で、その日の深夜まで悶えることとなった。

岩崎恭子氏の名言を借りれば

「今まで生きてきた中で一番苦しかったです」


(つづく...)





2020年12月13日日曜日

骨折の日(直達牽引)

 病院に着いても運び込まれたのは外来患者と同じ場所で、処置までもそれなりに待たされた。
なのでケガも大したことはないのだろうと気楽に考えていた。
手術も週明けの月曜日とのことで、その程度なのだろうと...。

処置としては、頸骨に銅線を通し重りで引っ張ってズレを調整するとのことだった (直達牽引)。

術後8週目の今、その当時の、外にはみ出した骨がどのように治まったいったのかは記憶にない(忘れたい過去としてインプットされたか、あまりにもグロい映像だったので自動消去されたのか...)。

記憶にあるのは↓な状態になってから。




重りは7kgなので、普通に寝ていると身体がだんだん下にずり落ちていった。
当然ベッドからは離れられない状態だったが、上半身は何ともなかったので用意さえしてもらえれば食事や洗面などはできた。
オシッコは尿瓶でセルフで出来たが、大便はオマルをお尻の敷いてしなければならず、今回の入院生活で最も恥辱的だった。

痛みは激痛までではなかったが、それなり必要十分な睡眠を取れた後は寝付けなかったようだ...。









 

2020年12月11日金曜日

防災ヘリに救助される

※お詫びと訂正
これまで本稿では「ドクターヘリコプター」と記していましたが、正しくは「消防防災航空隊」のヘリコプターでした。
両関係者各位はじめ皆様には深くお詫び申し上げます。

今回は、一般の人はまず頼る機会のないであろう、消防防災航空隊のヘリコプターの話を中心に...。
まずはその公共サービス↓

前述のように私達はすぐに発見されたが、隊員は直ぐには降臨(←神様のように敢えてこう表現)せず、しばらくは上空で旋回していた。
恐らく、周囲の地理的状況とか救出方法の安全確認とかをしていたのだろう(こちらの本音は「早くこの激痛をなんとかして」だったが...)。

その後一人の隊員がロープ伝いに降臨して私のケガの状況を検分し、私がその隊員に抱っこして引き上げてもらうことになった(のだと思う)。

はぅえばぁ~

前述とおり「これで激痛から解放される...」と思っていたのだが、隊員の方は私を吊り上げる準備だけで、骨折部分を固定するような処置はしてくれない(私はてっきり、映画やテレビでよく見る空気式の固定具を付けてくれると思っていたのダ...)。

結局は、地面から空中に持ち上げられる時と、ヘリの床面に乗り移る時に遠慮なく絶叫させていただいた。

ついでにもうひとつ...

ヘリの中には救急車にすぐ載せられるような担架もなく、床面に直接寝かせられたが、ここでも固定具をつけてくれることはなかったので、その後ヘリから救急車に乗り移る時と、病院の診察台に乗り移る時にも遠慮なく絶叫させていただいた(全ては私の不注意によって多くの人にご迷惑をお掛けした結果であることは重々承知しているつもりデス)。

閑話休題...

ヘリにはパイロットも含め6人が登場していた(操縦士と副操縦士、左右に二人ずつ)。
最初は「私一人のために...」と思ったが、山中を捜索しなければならない可能性なども考えると、それくらいは必要人数なのかとも思ったし、「このチャーター代は高くつくだろうな...」と、内心ゾッとした。
※この件については最後に補足する。

えにぃうぇい

まぁこれで(ヘリが墜落しない限り)最低でも死ぬことはないと思うと心にも多少の余裕が芽生え、窓越しの景色やパイロットが操縦する姿を眺めることもできた。
「これを動画投稿したら1000人位の閲覧者は一気に獲得できるかな?」とも思ったが、さすがの私でもそれは不謹慎だと悔い改めた。

その後、窓越しに見慣れた風景が見え、私の母校近くの公園に着陸すると告げられた。
そこには救急車が待機していて、そこから最寄りの総合病院に搬送されるらしい。
ちなみに、その過程でもしばしのタイムラグ(事務的な書類を渡すなど)があったが、それはそれだけ私のケガは緊急を要するものではないからだろうとたかをくくっていた。

最後にヘリを降りる時、隊員の方々に寝たままながらも最上級の敬意を込めて感謝の意を表す。
もちろんその直後(担架に乗り移る時)、最高級の絶叫を付け加えたのは前述のとおり。

追伸
事故から2ヶ月経過した現時点では、県などからの費用請求は来ていない。
このたびの件以来、何かあった場合の公共機関の有り難さに感服しきりなり。



2020年12月10日木曜日

骨折の日(ケガ~救出まで)

 

※ちなみに↑はただの落書きではなく、超音波治療を施す目印なり。

私のトライアスロン以外の夢は、自給自足的な暮らし送ること。
現状住居は、実家の小屋を改造して暮らしているので、一応「住」に関しては目標は達成したと自負している(↓その経過ブログ)。
https://hoidostyle.blogspot.com/2013/04/blog-post_13.html?q=住居をdiy

そこで次は「食」と言うわけで、今秋からキノコ取りの極意を知人から学んでいたのだが、骨折はその最中に起きてしまった。
着地は足からだったし、着地点も水面の砂地だったので最初は大丈夫だと思っていたのだが、いざ右足を動かそうとしたら激痛が走った。
足元を見ると大腿骨が飛び出ていて膝下がブラブラと揺れていた。それを見た瞬間、痛みではくホラー映画を見た時のような気持ち悪さで叫んでしまう。
すぐに知人が駆け付け、おんぶで沢から引きずり出され、なんとか岸辺の岩に腰掛けるまではできたが、それ以上動くのは絶対に無理だと悟った。

故にこれから先は、知人と今回の先導役だったキノコ取り名人の翁(そしてもちろんドクターヘリのレスキュー隊)によって私の命は救われたと言って良い。
まず彼らはその場所が担架では救助できない難所だと見極めると、すぐに知人がスマホのGPSでその地点を記録し、それからドクターヘリの救援依頼に奔走してくれた(当然そこは携帯電波の圏外であり、圏内までは多分2時間は掛かったはず)。
そしてヘリを待つ間は名人が自分の着ているシャツを破いて紐状にして添え木をしてくれた。



名人曰く、遭難や今回のような場合に備えてシャツは必ず2、3枚重ね着しているとのこと。
また出血は酷くなさそうだったが、解放部を気にしていた私に「バイ菌が入るから絶対触るな」と諭された(これは後に痛いほど痛感する羽目に...)。
そしてヘリが到着するまで、ず~っと落ち葉などを脚の周りにかき集めて寒くならないようにしたり、貧血や低体温になっていないかを訊ねてくれた。

えにぃうぇい

そんなふうに助けてもらっている間、何もできない私はその不甲斐なさ、ケガをした後悔や今後の不安、そして時折押し寄せる激痛によって潰されそうになったが、ヘリコプターの音が聴こえた時は一筋の光が差し込むような気がした。
そしてそのヘリが私たちが待機している(そこは上空から見ても見晴らしが良いとは決して言えない)場所をピンポイントで発見してくれたときは、GPSをフル活用した知人の機転の良さに改めて感嘆した。

「これで激痛から解放される」
というのがその時の心境だったが、運命の神様はそう簡単には許してくれないことを、この後何度も痛感することとなった。

To be continued...


2020年12月9日水曜日

大腿骨の開放粉砕骨折からアイアンマン完走を目指す(骨折日記の序章)

ケガをしたのは2020年10月15日。
キノコ取りの最中に崖から滑落し、右膝を岩に強打。

先達から添え木をしてもらい、救助ヘリを待つ図

結果は右大腿骨の骨幹部と遠位端部の間がギザギザに折れ、且つ骨幹部が露出。 
遠位端部は粉砕。 

最初の手術は4日後の2020年10月19日。
それまでは大腿骨のズレを7kgの重りで牽引。
手術の結果は、大腿骨は真っ直ぐには繋げられず、出来る範囲でプレート止め。
そのため遠位端部が通常より後ろにズレ、正面から見ても少々のズレあり。
また遠位端部の粉砕した箇所についてはスクリュービスを5本くらい打って固まるのを待つ作戦。

ともあれ以上のような形で、あとはとにかく骨が上手くくっついてくれることを祈りつつリハビリに励むしかないと思っていたのだが、更に悪いことに開放部から化膿炎症していることが判明...orz
気持ちが凹み過ぎて、化膿が一番酷い時の画像は撮る気力さえなかった...
↓は、大分マシになってからの画像。

ゾウさんの脚

はじめは抗生物質で対応しようとしたが炎症は治まらず、2020年11月6日に前の手術でプレートを入れるために切開した部分と共に改めて再切開して洗浄手術(デブリードマン)。

その後ようやく化膿は治まり、現在(ケガ後8週目)に至る。



当初は...

骨がちゃんとくっ付くか。
くっ付いたとして、どこまで膝を曲げられるか。
その際の痛みはどれ位か。
粉砕した骨が神経などに干渉しないか。

それに怪我をした後悔や膝の痛み、入院生活のストレスなどで冷静に物事を考えることなど何も出来なかったが、ようやく「骨はもう正常にならないのだから、あとは曲がった形で何とかするしかない。」という発想になり、このようにして過去を振り返ったり未来の夢や目標を吐露できるようになった。 

現在(51歳男)のところの大きな目標は…

「60歳でアイアンマン・ディスタンス完走で復活!」  

本当は(入院中は時間だけはタップリあるので)もっともっと妄想があるのだが、あまり欲張ってもまた神様の罰が当たりかねないので今はこの程度にしておきたい。

えにぃうぇ~い

これまで本ブログは個人本位の戯言が主だったが、ここから暫くは私と同じような境遇の方々との交流を少しだけ意識してみたい。

たとえば...

今現在、ケガや病気で入院療養されている方へ。
慰め合い、励まし合いながらストレスを発散し合いましょう。

過去に諸々の事情で、これまで嗜んでいた趣味やライフワークなどを諦めなければならなくなった方々へ。
どのようにして気持ちを入れ換えたかなど、その経験談や渡しへのアドバイスをお願いします。

現在トライアスロンをされている(或いはこれから挑戦予定の)同志の方へ。
色んなよもやま話で盛り上がりましょう。

追伸
一応、過去にはアイアンマン完走の実績があるリンクと画像を↓に貼っておきます。
2013年(台風のためスイムはスキップ)

2009年(ロングのデビュー戦)
https://hoidostyle.blogspot.com/2009/09/2009.html




2020年12月1日火曜日

政治家の不祥事と高校球児の連帯責任

 たとえば今の日本では野球部内で不祥事が起こると部員全体で責任を負うのがつねである。顧問の監督責任はもちろん、不祥事とは全く関係のない部員までもが活動自粛することもある。ところが政治家だけはそうではない。実際は彼の指示によるものだとしても監督責任どころか「私は全く関知していない。秘書が勝手にやった。」と言い逃れることもやぶさかでない。結局逮捕されるのは秘書だけで、自身は議員辞職もせず変わらぬ日々を過ごしている。
 ここで皆さんには、ご自身がそんな不運な高校球児になったと想像して頂きたい。
たぶん誰もが「せめて活動自粛だけは勘弁して」と言いたいはずだが、実際にそう訴える人は多くはないだろう。普通の人は世間体を気にするし、今の世間にそれを許容するおおらかさもないからだ。
 ところが議員先生だけは「職務を全うすることで責任を果たしたい」と開き直る。彼は世間体など全く気にしないし、世間も彼らには何の関心も示さない。
 果たしてそれで良いのだろうか。
不祥事とは全く関係はなかったのに甲子園に行けなかった球児たちは、手柄だけは自分の手中に納め、不祥事は全て部下の責任にする議員先生を見て一体どういう大人になるのだろうか。特に渦中の先生方はしみじみと(願わくは刑務所の中で)想像して頂きたい。