2009年12月25日金曜日

ナマケモノで良いじゃないか

恒例の「内田樹の研究室」より引用です

いろいろなメディアからの取材を受けたり、書評を読んで感じるのは「日本人よ、がんばれ」という叱咤激励型の言説に日本人自身がもううんざりしているということである。
叱咤激励的であるという点では右翼も左翼も変わらない。
「今の日本はダメだ」という点では進歩的反動的、老いも若いも、みな口調が揃っている。
「いいじゃん、もう、これで」という脱力系の言説だけが存在しない。
日本がダメである所以の過半は「怠惰」ではなく「勤勉」の結果である。
だから、「ダメなのでがんばる」という脊髄反射的なソリューションを採択している限り、「ダメ」さはさらに募るばかりである。
私はそう考えている。

なぜ日本は「こんなふう」になってしまったのか。
日本をダメな国にしようと邪悪な意図をもって活発に活動した日本人などどこにも存在しない。
ある種の社会的不幸に際会したときに、「その変動から受益している単一の張本人」がいると推論して、それを特定し排除しさえすれば世の中はふたたび「原初の清浄」に戻るという思考のしかたのことを「陰謀史観」と呼ぶが、世の中は残念ながらそれほど単純な作りにはなっていない。

社会的不幸には単一の有責者など存在しない。

責任の重さに濃淡はあるが、成員のほとんどが無意識的に加担し、成員のほとんどが間接的にそこから受益しているのでない限り、「社会的な不幸」と呼ばれるような重篤な事態は出来しない。
日本の刻下の不幸は「ダメな日本をまっとうな国にしよう」として試みられたすべての国民的努力のみごとな「成果」である。

『辺境論』における私からのご提言は「だから、努力するのを止めませんか」ということである。

国際社会でのリーダーシップも、経済成長も、学術での先導的役割も・・・そういう「身につかない」望みを持ったことによって、日本人は不幸になっていったのである。

論理的には当たり前のことで「向上心」というのは「欠落感」と同義語だからである。

「他者が所有し、自分が所有していないもの」について、それは「本来私もまた所有すべきものであり、他者によって一時的に不当に占有されているのである」というふうにシステマティックに考えることによって日本はこれまでやってきた。
権力も財貨も威信も情報も文化資本も、なべて他者がすでに所有して自分に属さないものを「私もまた所有すべきである」と一律に見なすことによって私たちは「向上心」に燃料を備給してきた。
それは恒常的に「欠落感に灼かれている」ということである。
絶えず上を向いて羨望のよだれを垂らしている「ビンボー人根性」をオーバーアチーブの唯一のモチベーションとしてきたということである。
それによってたしかに私たちの国は敗戦後、奇蹟の経済成長を遂げ、科学技術のいくつかの領域で先端的な業績を上げ、国際政治の一隅にそれなりの地歩を占めるに至った。その努力は多としなければならない。

だが、恒常的に欠落感を感じ続け、「世界標準へのキャッチアップ」だけでわが身を鞭打ち続けているうちに、日本人は国民的規模で「鬱」になってしまったのである。

現在の日本の不幸の原因は「過労」である。

過労でやつれはて、生きる意欲をなくしている人間に向かって、「さあ、『過労』を克服するために、刻苦勉励しよう」と言い立てるのはあまり賢いふるまいとは思えない。
少なくとも精神科の医者は止めるであろう。
個人については万人が同意する診断について、国民全体については同意できないというのは、そこまで「刻苦勉励病」の病巣が深く国民性格のうちに巣喰っているということである。
それだけ病状は深刻なのである。
だから、「休もうよ」と申し上げているのである(と言っている本人がまず休むことが先決なのだが、それができないでつい仕事をしてしまうというところに現代日本の病状の深刻さが露呈しているのであるが)。

私たちの国の言論人は人々に向かって「もっと努力しろ」と告げるタイプの言説しか語らない。

「そんなにむきにならなくてもいいよ。疲れてるなら、少しの間、休もうよ」といういたわりの言説だけが誰によっても口にされない。
これは異常である、と私は思う。

例えば、環境問題というのは誰が何と言おうと「働き過ぎ」の成果である。

働くほど環境は破壊される。

ほんとうに環境を保全したいと望むなら、自然の再生産が可能な範囲に経済活動を自粛するべきなのである。


緑に覆われたペロポネソス半島はいまは禿山だらけだが、それはギリシャ人が製鉄の燃料のために切ってしまったからである。
古代の経済活動レベルに戻してさえ、それでも環境は破壊されてしまうのである。
そのことを覚えておこう。

繰り返し論及している教育問題についても、同じである。
日本の子どもたちの学びへの意欲が急速に減退しているのは、「勉強すると金になるぞ」という類の経済合理性によるインセンティブを過剰服用したせいである。
小学生たちは深夜まで塾通いをしている。そんなふうにして学習時間はどんどん長くなり、教育費はどんどん高騰し、学力はどんどん下がっている。
それに対して、さらに学習時間を長くして、さらに教育費を高騰させ、学力による格付けと差別を強化することを教育行政はめざしているが、その結果がさらなる学力低下をしか生み出さないことに彼らだって内心気づいてはいるのである。ただ、脊髄反射的に「失敗したら、さらに努力する」ソリューションしか思いつかないのである。

繰り返し申し上げるが、現代日本の不幸の過半は「努力のしすぎ」のせいである。

私たちは疲れているのである。
私たちに必要なのは休息である。
『日本辺境論』が売れているのは、「もう努力するのを止めましょう」という(日本人みんながほんとうは聴きたがっている)実践的提言をなす人がいないせいである。
きっとこの後、潮目の変化を感じとった言論人の中から「日本人よ、ナマケモノ化せよ」といったタイプの言説を語る人が出てくるだろうと思うけれど、そういうことを「せよ」という当為の語法で語るのがもう「刻苦勉励」なんだよね。
こういう提言は「オレ、ちょっと疲れちゃったからさ、休まない?ねえ、休まない?」という懇請の語法で語られないと通じないのよ。


��・・

本当に久し振りに、世間一般的な社会生産活動に参加しているイトー

それでも極力、「お気楽な見習い身分」の立場を超えないように振舞っているので何とか生存していますが、働いても働いても一向に仕事の終らない先輩諸氏(と言っても、戸籍上の年齢は僕よりも若いと推察されますが…)を拝見しているだけで僕の方が先にストレスで押し潰されそうになっています…/(^^ゞ

まぁ、直ぐにドロップアウトするのは時間の問題でしょうネ

2009年12月3日木曜日

遍路日記09~あとがき

今回のこの旅を思い立った理由をふと考えてみたのだが、トライアスロンを始めた理由と同様にどうしても思い出すことが出来なかった。ただ私が以前に菜食生活に目覚めてからは、"直感"や"思い付き"で行動してきたつもりでいる。実際トライアスロンや今回の御遍路も何となく「カッコ良い」とか「面白そう」というイメージだけで始めた。そしてその結果、理由だけを先行して考え結局は何も出来ず仕舞いの不甲斐無い日々の過去の私とは大きく変わった。「取りあえずやってみよう!」というのが鍵のような気がする。

たとえば…

私達が或る行動に出る際に、その意義などについて考えていたら、一日12時間走り続けたり御遍路の全行程を「歩き&野宿」する事なんて思い付きもしないはずである。巷の”普通”をそのまま踏襲し、その流れに従うのが一番楽だしスマートだとも思う。しかし敢えてその流れに逆らうことで見えてくるモノもある。とを達成すると、何となく「俺って凄くない!?」

※以下草稿中…


これを「人間、その気になれば叶わない夢はない」と言うことも出来るかもしれないが、僕は敢えて「結果オーライ」と考えたい。また「取り敢えずは行動してみる」ことは、例え失敗したとしても(否、寧ろ失敗することの方が多かったが…)何らかの経験にはなったし、少なくても何もしないで引き篭もっているよりは"何ぼかマシ"である事も判った。

例えば…

もし、何十年ローンを組んで豪邸を建てたとしても火事や地震で崩壊すれば全てパー、後に残るのは、既に存在しないモノへ払い続ける負債と、新しい住宅に対する更なるローンである。四国の野宿では風雨が凌げる空間さえあれば十分に有り難いと痛感することが出来た。これが僕が今後、方丈生活を決心
する大きな理由の一つである。またもしも、高級外車を所有したとしても盗難などが心配では本末転倒のような気がする。四国での何も持たないフットワークの身軽さは、生活上かなり楽であることが判った。

それに四国での薄汚い格好で歩き続けた経験によって外見からはどう判断されても構わないと思えるようになったし、僕にとっては「佐渡フィニッシャー」の称号だけで十分過ぎる栄誉だと自負しているので、それ以上自分を着飾る必要はないとも思えるようにもなった。

あるいはまた、高収入の会社で働けたとしてもストレス過多になるような仕事では生きた心地がしないような気もする。人間、食べることさえ出来れば(それがどんなに質素なものでも)十分に健康で暮らして行けることを、菜食中心にトライアスロンに励んで来た暮らしを通して実感出来た。
その糧を買う金がなければ、畢竟自分で栽培すれば良いだけの話である。
「健康は金では買えない、自分で培っていくもの」
テレビショッピングでの健康食品の宣伝文句や病院に大挙する人々の群れを見る限り、そんな基本的なことを忘れてしまっている人が多いような気がしてならない。

えにぃうぇい…

お遍路から帰宅して既に1ヶ月以上経つ現在でも脚の裏の感覚は麻痺したままなのだが、四国での記憶の方は大分薄れて来た感がある。そろそろこの辺で道中で考え密かに書き溜めていた様々な戯言もこの辺りで封印することにしたい。因みに僕は今山形を離れ、新天地を徘徊中である。実は四国で気付いた事の一つに、「野宿」や「放浪」という一見は誰にも頼らないかに見えるライフスタイルも、実際はかなりの割合でその地域の人々や施設からの支えが前提で成り立っているということがある。そのため今回は別の方法を模索中なのであるが、やはり現実はそう甘くはないらしい。しかし勿論、そう簡単には挫折しないつもりだ。今後も自分の感性を頼りに、最大限の誠意と良心を持って暮らしていけば、これまでのように必ず途は開けると信じて止まない。

それでは次回、サードステップ開始のお知らせを一日も早くアップ出来る日を願いつつ…


2009年10月26日月曜日

遍路日記09~千秋楽

(前編より続く)

栄えある最終日の最初のお寺さん、岩屋寺はこんな佇まいである
昨夜の奇妙な出来事は此処から発せられたオーラのせいと思われる位に不気味な面影であった












おまけに台風後はずっと晴天続きだったのに、昼前からは小雨が時折舞い降りてくる生憎の天気に…

雨の国道33号線を歩きながら「何も最終日に限って…」と、つい愚痴も出てしまったが、旧土佐街道の遍路路に入り松山の景色を俯瞰した時にはこれまでの全ての苦労や疲労も一蹴、この雨も"歓喜の涙雨"と思うことが出来た

今日まで散々山登りをして来た訳だが、あとはこの峠を駆け降りるだけである





おまけに最後の最後にこんな素敵な場所での御接待を授かるオマケ付き
※此処でおにぎりや柿・みかんetc…たくさん御馳走になれたので食費も¥0…/(^^ゞ














そしてそのまま無事にひげ坊主さん宅に帰還

此処で預かって貰っていた荷物を引き上げ、雨が本降りになる寸前に道後温泉に到着する

当初は、最終日位は豪勢に旅館にでも泊まろうかとも思っていたのたが…

これまで野宿を通して来た人間にとって、安くても1万円近くする宿泊料金にはどうしても納得出来ず、結局は素泊まり¥2,000のゲストハウスに宿を取り、近くのスーパーの半額セールのお惣菜を肴にしてのささやかな打上げで幕を閉じることと相成った

(おしまい…)







一応、最後に…

最後に四国までの旅費と四国で遊んだ分は含めない、純粋にお遍路に掛かった費用を集計すると…

・食費 ¥32,148 …その内の焼酎の占める割合は¥10,353

・雑貨 ¥945 …靴下や乾電池など
・衛生 ¥1,798 …薬、銭湯、コインランドリーなど
・合計 ¥34,891

自分で言うのも何だが、4週間で一周した期間も然ることながら、費用の方も上位にランクするケチ振りではないだろうか…






2009年10月25日日曜日

遍路日記09~二十八日目

2009年10月25日(日) くもり時々雨

☆行程
(2:30)久万公園(発)→(6:50)45番「岩屋寺(いわやじ)」→46番「浄瑠璃寺(じょうるりじ)」→47番「八坂寺(やさかじ)」→48番「西林寺(さいりんじ)」→49番「浄土寺(じょうどじ)」→ひげ坊主さん宅(ゴール)

☆費用
食費:¥0
合計:¥0

いよいよ本日が最終日である

な訳で、最終日には最終日らしいエピソード…

この日の朝は、何時もにも増してハッキリと目が覚めた

腕時計を見ると4:50AM
何時も通りの起床時間である

その頃の四国は6時にならないと明るくならなかったし、ここから岩屋寺までは街路灯もなさそうな道だったが、幸か不幸か歩き始めてすぐに(街灯もある)長いトンネルがあったので、そのトンネルを抜ける頃には明るくなっているだろうと、これまた何時も通りに5:20に出発

ここで、前置きを二つ程…

☆まず一つ目
この何日か前に道中を御一緒した人から「チョッと前に遭った本職の僧侶の方から"○○トンネルには幽霊がいる"旨の話を聴いてからは、全てのトンネルが怖くて仕方ない…」という話をマタ聴きして以来、僕もトンネルは大の苦手になってしまった

☆次に二つ目
45→46も所謂「遍路ころがし」と言われる"行って戻ってくる"コースだったため、参拝道具以外の荷物は全て発着点に置いて出発したのだった

そんな訳でこの日もトンネルは急いで出口まで走り続けたのだったが、予定では薄明るくなっている空が依然として真っ暗闇なのである…Why!?

これは流石に可笑しいと、今度は携帯電話の時計をチェックしたところ…

2:50AM

これがどうやら日本標準時刻らしい

ここで改めて腕時計の日時を見ると、日付は2000年の1月1日であった…

実は僕の腕時計はソーラーパワーなのだが、最近の寒さで夜通し寝袋の中に腕を突っ込んだまま寝ているせいか電池切れでリセットされていたのに、ようやく此処で気付いた次第である

ヤレヤレ…

補足
同じ事件は、佐渡トライアスロン大会のスタート前にも起こった(幸い、その時は隣の人に現在時刻を聴いて事なきを得た)ことから、どうやら僕の御先祖様は、大事な時に限って↑のような悪戯をするのが好きなのかもしれない…

ここで、今の僕の状況を再確認すると

午前3時の久万高原町の山の中で、寝袋や防寒具は一切無し…

敢えて強調させて戴けるなら…

町の名前に"高原"が付く位の標高の地で、トレーニングジャージ上下だけの格好である

かと言って昼間ならともかく、丑三つ時と知ってからではあんな長いトンネルをもう一度潜りたくもないし、もう40分近く歩いたので戻りたくないのが真情ではある

すると、500m位前方に明りが見えたので取り敢えず歩いて行くと、幸いにも休憩所と公衆トイレがあった

先ずは東屋で横になってみたが袖壁の隙間から吹き付ける風の冷たさはとても眠れるような状況ではなく、それに元々眠くなくてパッと目覚めた訳だから再度眠りに付くなんて無理な話である

それで今度はトイレに避難してみると、風の方は遮れられたが、如何せん此処のトイレはセンサーによって照明が自動点灯する仕組みであった
願わくは暗い状態で自然に眠気を誘ってくれたらと思っていたのだが、チョッした動きも見逃してくれないセンサー君の監視には直ぐ降参、この時点で寝ることは完全に諦めた

便利な世の中というのは得てしてこんな風に、基本的な人間の営みの邪魔をするものであると深く実感する…

さて…

朝までは未だタップリ時間はあるのだが、何もする事はない…

という訳でここは折角だからと、トイレの中で一番安らげる方法は何かと色々模索してみた

先ずは、床の長辺方向に屈折して寝てみたが、タイルの冷たさと寝返りも打てない窮屈さで即却下

次に、便器前の短辺方向の床に体育座りで休んでみたが、これまたお尻と足首が痛くて却下

結局は矢張り、素直に便座に座るのが一番耐え得る姿勢であると学習した

さてさて…

それにしても未だ2時間以上あるのだが、当然何もする事はないし、寒さも更に深みを増していくようだった

そんな折、ふと便座の後ろをみて見ると…

「この便座には温座機能が付いているではあ~りませんか!」

御先祖様は最後の最後で粋な計らいをしてくれるらしい

コレが最後の御祈りとばかり、抜けていたコンセントを指し込み、ダイヤルを「高」に回すと…

ブラボー

この便座への感謝の念は、今でも忘れられない事の一つである

便利な世の中というのは得てしてこんな風に、基本的な人間の営みの中に一時の快楽を与えてくれるものであると深く痛感する…

これで何とか朝までは耐えられる事を確信してからは一気に元気が復活し、今度は今持っている備品をチェックすると、暖を取る道具は他にも多数あることが判る

先ずは当然のことながらローソク
これをトイレットペーパーホルダー上に灯し立て、手をかざして暖めたら更に体感温度は上昇した

次に新聞誌
コレを衣服間に挟んだだけでも効果ありとは前から聴いていたが、こんな所で実証することになるとは思いもしなかった

最後は判衣…
コレは本来、棺桶に入る時に着るモノであるらしいが…
まさか、こんな所で、こんなにも早く袖を通すことになるとは…(笑)

そんなこんなしている内に何時の間にかウトウトとなったのだったが…

頭を"コクリ"としただけで働き者のセンサー君がキチッと反応し僕を起こしてくれたのは、恐らくお大師様からの試練なのだろう

まぁそんなこんなを繰り返しながらも、ようやく日本時間の「5:30」となる

四国御遍路の最終日は、光栄にも二度出発する破目に相成ったのだった

(後編に続く…)

2009年10月24日土曜日

遍路日記09~二十七日目

2009年10月24日(土) くもり

☆行程
(4:55)十夜ヶ橋永徳寺、御野宿大師堂(発)→(16:00)44番「大寶寺(だいほうじ)」→(17:20)久万公園(泊)

☆距離
約51km/10h13'

☆費用
食費:¥1,309 
合計:¥1,309


昨夜は御大師様と添寝したお陰で、普段は悪夢しか見ないのに夢らしきモノは見た記憶がなく、朝の目覚めもスッキリした感がした

今日の行程はただ只管国道と遍路道を交互に歩き続けるのみであったし、土曜日にも関わらず同行の人とも余り遭う事は少なくてかなり退屈だった

Walk,Walk,Walk…

夕方、今日の宿泊地の久万公園では、明日のマラソン大会の準備に追われていた

そう言えば僕も市民ランナーの端くれだったことを思い出す

同宿のお爺さんが周囲にブルーシートを張り巡らせるなど、せわしなく寝床の準備をしていた
「ああでもない、こうでもない…」といった感じで右に左に動く様は、呆れるというより滑稽に見えた

そんな風に思いながらも、僕はそそくさと寝床のセッティングを済ませ(僕の場合は、銀色マットを敷き、その上に敷くエアーマットの空気を入れ、寝袋を被れば完成する)、そのまま酒を飲み、何時の間にか寝てしまった27日目の夜だった

2009年10月23日金曜日

遍路日記09~二十六日目

2009年10月23日(金) 晴れ

☆行程
(5:45)道の駅「みま」(発)→(6:30)42番「佛木寺(ぶつもくじ)」→(?)43番「明石寺(めいせきじ※あげいしじ)」→(17:10):十夜ヶ橋永徳寺、御野宿大師堂(泊)

☆距離
約39.2km/8h03'49"

☆費用
食費:¥1,067 お酒:¥1,080 その他(ガーミンのガラス保護フィルム):¥105
合計:¥2,252

今朝の出発風景

夜明けの遅さと朝の冷え込みは、風邪を引いた頃よりも更に深みを増していた様に思う

朝の面白い風景












その正体→
標高は400mにも満たない(予想)場所だったので、最初に山の陰から見えた時は湖畔だと勘違いしていたのだが…














閑話休題…

今回の旅では、スティーブ&クレアやO村さんとの度重なる再会や、御接待を授けて下さった方がトライアスロン愛好者だったり、はたまたそのお父さんが山形出身だったりと、つくづく「縁」というモノを魅せ付けられた感がしたが、その中の御一人が、この日に出遭ったHさんという女性だった


実は彼女、僕と同様に数年前からベジタリアンになり、その後益々オーガニックなモノに傾倒、近い将来には自給自足的な暮らしを始めるそうである。
(でしたっけ…?)

尚且つ…

今回の旅の中で健脚と自負する僕を追越して行った人間は二人いたが、彼女こそその一人でもあったのだ

そんな訳で彼女が僕に歩調を合わせてくれ(たんでしょ!?)、暫し会話をした(と言っても、僕のマシンガントークの内容の感想を聴く程度の会話であるが…)中で、女性一人では(痴漢が危険で)中々行けない山間の遍路道を同行することとなった

まぁ、そこまでは良かった…

前置きの通り、何分考えるよりも先に脚が動いてしまう二人なので、一旦道を間違えるとそれはそれは途方も無い位に正規のルートから外れてしまうこととなり、今回もそうなったのは当然の帰結である
※今回は寧ろ、相乗効果で倍増したと言っても良い

しかながら…

御遍路には必ず「地獄に仏」的な方が出現するらしく、今回その役を演じて下さったのは僕らが迷い込んだその山林の所有者でもあるお爺さんであった

後から、そのお爺さんから聴いた話では…

近くの畑で農作業中に、楽しそうに談笑し合いながらも全く違う方向に、それも猛スピードで(笑)歩く僕らを発見し追い掛けたのだが中々追いつけずにいたところ、その後間違いに気付き舞い戻ってくる僕らとやっと遭えたらしい

そしてその仏様から、本来の遍路道に通じる近道を案内して貰うことになり、獣道ですらない本当に木々の間を縫った山を昇る破目になったのは、普段では絶対出来ない貴重な体験だった

その後Hさんとは大洲市中心部で別れ早歩き地獄からは解放されたものの、僕にはもう一つの課題である宿探しが残っている

予定では内子町まで行く予定だったので先を急いでいると、前方にビニール袋をぶら下げた不気味な陰を発見…

またもやO村さんである…

彼曰く「十夜ヶ橋永徳寺の善根宿は最高だが、如何せん近くには銭湯が全くない」
と、いきなり愚痴を聴かされることになるが、その分、快適な善根宿を紹介して貰ったことでプラマイゼロとしよう

さらに、この近くには「御野宿大使像」という全国で唯一野宿修行が公認されているという正に野宿人間のメッカとも言えるスポットがあり案内して貰うことに

↓十夜ヶ橋永徳寺と御野宿大使像の説明
http://toyogahashi-syokudou.com/infomation/toyogahashi-eitokuji.html

野宿ミッションを続けてきた人間が、これを見て此処で野宿しない筈はない

また余りにも先を急ぎ過ぎて、こんな貴重な場所を通り過ぎようとしていた自分が恥ずかしくもあり、O村さんを見直す良いキッカケともなった

この日は電気も布団もある善根宿でO村さんと飲み交わした後、寝る時に↑の大師堂に移動する事にした

此処は精神的には一番安眠出来た場所だと今更ながら思う次第である

ゆきなやむ浮世の人を渡さずば 一夜も十夜の橋と思ほゆ

南無大師遍照金剛





2009年10月22日木曜日

遍路日記09~二十五日目

2009年10月22日(木) 晴れ

☆行程
(4:30)起床→(6:15)道の駅「みしょうMIC」(発)→(6:30)40番「観自在寺(かんじざいじ)」→(16:45)41番「龍光寺(りゅうこうじ)」→(17:20)道の駅「みま」(泊)しょうMIC(泊)

☆費用
食費:¥649 お酒:¥980 
合計:¥1,629

この日も色んなことがあったように思うが、何故か余り思い出せない…
かなりラリっていたのだろう

そんな中で唯一印象に残るエピソード

本日の御宿「道の駅みま」にて今夜の餌を物色していると、前方より迫り来る物体(それは遠目にも、明らかに一般の人々とは一線を画している)あり

嫌な予感通り、その正体はO村さんだった…

「あの人は僕が宿泊しそうな所で待っていてくれるのではないだろうか」と思いつつも、今夜もそんな彼の愚痴を聴きながら地元の焼酎を飲み、夢路に就いた25日目だった

2009年10月21日水曜日

遍路日記09~二十四日目

2009年10月21日(水) 晴れ

☆行程
(5:30)起床→(6:00)休憩所(発)→(11:45)39番「延光寺(えんこうじ)」→(18:30)道の駅「みしょうMIC(泊)

☆距離
53.8km/10h32'34"

☆費用
食費:¥1,059 その他:¥105 
合計:¥1,164

昨日あれだけ歩いたので、今日は程々にと思っていたのだが…
日記にも何の感想も残ってない位に、今日も唯只管歩く日々だったような
(↑のように、結局本日も50kmオーバー…)

な訳で、事実のみ淡々と…

西ノ谷の休憩所手前の集落で、¥300とリポビタンD(それも2本も!)を戴いたお爺さん
道路工事の仕事中、外れた方向に向おうとする僕をわざわざ車で追い掛けてくれて正しい道を教えてくれたオジさん(と言っても、意外と僕より若かったりするのだが…)
夕方、みかんを一袋戴いた、中尾ストア(八百屋さん)のお母さん

有難うございました…


2009年10月20日火曜日

遍路日記09~二十三日目

2009年10月20日(火) 晴れ

☆行程
(4:20)起床→(4:50)休憩所(発)→(8:15)仏具以外の荷物を橋の下に置き足摺岬へLSDラン開始!→(11:40)38番「金剛福寺(こんごうふくじ)」→(12:00)復路発→(16:00)無事帰還→(17:30)ドライブイン水車のトイレ前室(泊)

☆距離
約70km!

☆費用
食費:¥694 お酒:¥930
合計:¥1,624

38→39のルートは大別すると3つのルートがあるが、最短の記録を狙う僕は「下ノ加江~足摺岬」を往復するだけの一番味気ないルートを即決

そして…

その発着点に着いた時刻は丁度8:00、岬までは約30km、寝袋などの荷物は置いて行く事も可能…

以上を加味して、(脚だけでなく)思考回路まで麻痺していた僕の出した結論は…

荷物を置いていく代わりに、足摺岬までの往復60kmを一日で行って戻って来るコースであった

しかしこの結論は…

「ちゃんとしたジョギングシューズで、且つ休養も栄養も十分」
という、僕が普段LSDランをする際の条件の下で計算されたモノであって
「四国に来る以前で既に履き潰されていた古いジョギングシューズと、これまで22日間歩き続けて来た疲労蓄積と栄養不足」
という、抵抗係数は全く無視されたモノである



こんな初歩的なミスに気付いたのは、歩き初めて既に20km付近であったので、戻るのも勿体無いし、かと言って此処で立ち止まっても野宿も出来ない(つまり寝袋などの荷物は全て置いてきた)訳だから、結局は歩き続けるしかない

まぁ、何とか日が傾く前の16時に無事発着点に帰還することは出来た

しかし、それにしても一日で70kmというのは余りにも無謀過ぎたことは今振り返れば当然なのだが、その時点では本当に「チョッとだけギャンブル」位にしか感じられなかったのは、やはり「修行の道場」のなせる業なのだろう

さてさて…

この日の宿「ドライブイン水車」前の東屋では、五度目のスティーブ&クレアと邂逅
※以前の日記には鶴林寺の手前で遭ったのが最後と書いていましたが、実際は此処が最後でした

Any way 元気そうで何より!

ボンボヤージュ

また、この日の同宿人(と言っても野宿だが…)は他に、オランダ人のオジさんと、先達っぽいおじいさん、そしてこの日の昼にも一度御会いしたK川さんで、僕を含め合計6人




これだけ難民(?)が多いと東屋だけでは収容し切れず、僕とK川さんはトイレの前室で寝る破目になる
トイレを借りに来たドライバーの方々も、この難民キャンプにはさぞかし迷惑したと思われる

本当にスミマセンでした…

2009年10月19日月曜日

遍路日記09~二十二日目

2009年10月19日(月) 晴れ

☆行程
(5:00)起床→(6:15)道の駅「あぐり窪川」(発)→(6:50)37番「岩本寺(いわもとじ)」→只管歩く→(17:30)四万十大橋手前の休憩所(泊)

☆費用
食費:¥1,248 
合計:¥1,248

♪今日の一枚
(岩本寺を出た所にあった道しるべ)

※内容は「38番、金剛福寺まで92km」デス

これを見て「明日の夕方には何とかなるなぁ…」と考えていたことから、この時点で既に思考回路は完全にイカれていたらしい

その道中のこと…

何時もの様にAMラジオで人生相談を何気なく聴いていると、その内容は
「39歳の息子が仕事もせずに引篭りなので私が面倒を見ているのだが、私が死んだ後はどうしたら良いか?」
であった

何時もならただ呆れて、直ぐに他のチャンネルに換えるだけなのだが…

これも御遍路の旅のせいだろう、彼女の話が僕が生きる世界とは全く次元の違う「宇宙人の話」に聴こえたばかりでなく、その回答者から
「今後はお母さんも旅行を楽しむなどして、少しずつ息子さんから離れたら如何でしょうか?」
というアドバイスを聴いた暁には、

「恐らく↑の様な遣り取りが今の普通の対応であって、僕の考えの方がかなり現代社会から逸脱しているのでは…」

と思った次第である

因みにこの日以降、ラジオは朝の天気予報だけしか聴いていない

まぁ、こんな感じになったのも…

「↑のような景色を眺めながら「次の目的地まで92km」なんていう旅をしていたから」という意見には異論はないのであるが…

さてさて…

今日の宿は予定では四万十大橋を越えた公園だったが、橋の手前に絶好の東屋(そして、イカの塩辛が美味しいスリーエフ)があったので、無理はせずにチェックイン

明日の室戸岬アタックに備え、チョッと早目の燃料補給と相成った






2009年10月18日日曜日

遍路日記09~二十一日目

2009年10月18日(日) 晴れ

☆行程
(5:50)休憩所(発)→(7:10)36番「青龍寺(しょうりゅうじ)」→(12:00)道の駅「須崎」通過→(17:30)観光物産センター→(18:30)道の駅「あぐり窪川」(泊)泊)

☆距離
約53km/9h18'25"(Av:10'31"/km)+4km(トンネル内などのガーミン未記録分)
合計:57km

☆費用
食費:¥799 
合計:¥799

民家すらない室戸岬へのアタックを経験してから、コンビニが非常に貴重なオアシスに見えてきて、お腹が空いてなくても引き込まれる様になった今日この頃

俗世からのトリップは未だ当分先のよう…

そんなコンビニで今夜の餌を補給した後、今日の宿である道の駅「あぐり窪川」でも最も快適な寝床スポットを物色中、先日「道の駅ひわさ」で遭ったO村さんと二度目の再会
※O村さんとは、その後も合せて合計4回遭遇する事になった

彼は電車やバスも使いながらノンビリ旅なのだが、それでも徒歩オンリーの僕が追い付いている事に驚嘆しきりの御様子…

今夜も、O村さんの愚痴を聴きながらも、スリーエフの¥126のイカの塩辛があれば十分幸せに感じられるようになった事は、チョッとだけ解脱したかもと錯覚した21日目の夜であった



2009年10月17日土曜日

遍路日記09~二十日目

2009年10月17日(土) 晴れ

☆行程
(5:10)東部運動公園(発)→(6:50)32番「禅師峰寺(ぜんじぶじ)」→33番「雪蹊寺(せっけいじ)」→34番「種間寺(たねまじ)」→35番「清瀧寺(きよたきじ)」→塚地坂トンネル手前の東屋(泊)

☆距離
約40km

☆費用
食費:¥1,261 薬代:¥498 
合計:¥1,759

お大師さまへの切実な祈りが届いたのか…
薬の副作用(まぁ呑み過ぎかもしれませんけど…)で胃が痛むものの、熱と間接の軋みはほぼ解消した模様v(^_^)v

南無大師遍照金剛

そんな訳で、以前のように足取り軽く桂浜の方にある大きい橋に向って歩いていると、通り掛かりのお爺さんに高知港には無料の渡し舟があることを教えて貰う

感謝、感謝

そして今度は春野町で、車に乗ったオバさんが降りてきて新高梨を貰いつつ話をすると…

何と、そのオバさんは今年の宮古島に挑戦するトライアスリートとのことで30分以上も立ち話をする破目に…(^^ゞ

これまた、何かしらの縁をつくづく感じた二十日目のエピソードだった