2011年4月24日日曜日

放射能対策〇〇

以前「インフルエンザ対策スーツ」なるモノが市販化された時も、その商売根性と言うか眼の付け所に驚かされた。

な訳であるからして、表題のようなモノが巷に出回るのはもう時間の問題、あるいは僕が知らないだけで既に存在するのでせふか!?

Anyway…

サンデル教授はじめ欧米人が驚愕する日本人の強かさは、そんなシュールな発想力が根幹にあるような気がする。
例えば、ウォークマンが誕生したように

ただその一方で…

病的なまでに「やる時は徹底的にやる」のも私達の宿命なのかもしれない。
例えば、先の戦争であそこまで戦い続けたように…

そうでなければ「ビジネススーツでインフルエンザを防御する」などとは普通は考えつかない…

2011年4月22日金曜日

ジャパン・フリー

狂牛病のときには宗主国に対しても反旗を翻し、ましてや薬物餃子事件のときなどは隣国を糞味噌にこきおろした記憶が僕の中にはある。
確か「全頭検査以外罷り成らぬ」とか「中国産一切お断り!」といった、かなりヒステリックなモノばかりだったような…。

このような私達の言動に対して、真摯に働いていた多くの米国や中国の生産者の方々は理不尽なまでの憤りを感じたであろう。
畢竟「そんな謂れのないことで、何で私達まで敬遠されるのか…!?」

ところが今回、立場が一転した形となった。
今後どうなるのか非常に怖い…

2011年4月19日火曜日

日本全国の伊達直人は…

恐らく真に匿名による篤志にこそその価値があると気付き、日々何らかの行動をしているものと期待する。

そういえば…

姉歯氏が構造設計した一連の建物は、その後どうなったのだろうとも思ったが、流石に取り壊し又は耐震補強されているらしい。※チョッとだけ今回の地震にビクともしなかった雄姿を見てみたかったと思う不謹慎なアタシ。

追伸
連日の報道にふと「東電OL殺人事件」を思い出し、結局は佐野眞一著の本を熟読し益々鬱になった今日この頃、選挙カーの撒き散らす騒音が更にその侠気の沙汰を色濃くしているような気がしてならない。

2011年4月15日金曜日

ご飯とお掃除

何時もの事ながら、以下は内田樹センセーからの引用。
村上作品はどうして世界的なポピュラリティを獲得したのか、という問いに対して、「ご飯とお掃除」について書かれているからであろうとお答えする。
世界中、言語や信教や生活習慣がどれほど違っていても、人々は「ご飯を作り、掃除をする」ということにおいて変わらない。
いずれも人間にとって本質的な営みである。
「ご飯を作る」というのは、原理的には「ありもの」を使って、そこから最大限の快楽を引き出すということである。
金にものを言わせて山海の珍味を集め、腕のいいシェフに命じて美食を誂えさせるというのは「ご飯を作る」という営みの対極にある。
「ご飯を作る」というのは、人類史始まって以来のデフォルトである「飢餓ベース・困窮ベース」に基づいた営みである。
その基本は「ありものを残さず使う」、もっと平たく言えば「食えるものは何でも食う」である。
村上春樹作品には「ご飯を作る」場面が多い。異常に多い、と申し上げてもよろしいであろう。

基本は「ありものの使い回し」である。

そして、この「ご飯を作る場面」を村上春樹は実に丹念に、ほとんど愉悦的に書き込んでおり、読者もまた、その場面を読むことからつよい快楽を引き出している。

美食を堪能する場面を書き込む作家はいくらでもいる。
けれども、「ありあわせのもの」で「ふつうの料理」を作る場面にこれだけ手をかけ、それをこれだけ完成度の高い文章に仕上げることに文学的リソースを投じる作家はレアである。
おそらく、そこにこの作家の本質はあり、世界中の「ご飯を作る人」はそこに感応する。



「お掃除」もそうである。
文学作品は無数に存在するが、「お掃除する場面」にこれだけ長い頁数を割いた作家はほぼ絶無と言ってよろしいであろう。
掃除については、これまでブログに何度も書いたが、これは「宇宙を浸食してくる銀河帝国軍」に対して、勝ち目のない抵抗戦を細々と局地的に展開している共和国軍のゲリラ戦のようなものである。
この戦いの帰趨は始めから決まっている。
部屋は必ず汚れる。本は机から崩れ落ち、窓にはよごれがこびりつき、床にはゴミが散乱する。局地的に秩序が回復することはあっても、それはほんの暫定的なものに過ぎない。
無秩序は必ず拡大し、最終的にはすべてが無秩序のうちに崩壊することは確実なのである。
けれども、それまでの間、私たちは局地的・一時的な秩序を手の届く範囲に打ち立てようとする。
掃除をしているときに、私たちは宇宙的なエントロピーの拡大にただ一人抵抗している「秩序の守護者」なのである。けれども、この敗北することがわかっている戦いを日々戦う人なしには、私たちの生活は成り立たない。

村上春樹作品の主人公はしばしば「お掃除する人」でもある。
「お掃除をする人」はその非冒険的な相貌とはうらはらに、人類に課せられた「局地的に秩序を生成するためのエンドレスの努力」というシシフォス的劫罰の重要性を理解している人なのである。

「ご飯を作り、お掃除をする」というこの二つの類的営みを愉悦的経験として奪還するという点に、おそらく村上春樹の文学の世界性の秘密は存する。


上記は抜粋、全文はコチラ↓
http://blog.tatsuru.com/2009/06/24_0907.php


ご飯を作る人…

自らも被災者でありながら炊き出しをするオバちゃん達

掃除をする人…

自衛隊、消防士&レスキュー隊、福島原発の現場で働いている方々…

そう思うと、僕みたいな部外者が云々いうのは筋違いも甚だしいと益々持って憂鬱になった次第であります…

2011年4月11日月曜日

風は吹かず…

それは2009年の東京マラソンのボランティアをしたときのこと…

私の担当はゴールしたランナーへの荷物引渡で、(真実は不明だが)半強制的に参加させられた都立高校の某君と一緒だった。まぁ僕自身がチョッと前までは金を払ってまでフルマラソンを走る人の気持ちなど全然理解出来なかったので、そんな某君の義務的な応対も全く持って理解出来た…

ところが…

最後の最後に例の大将が労いのお言葉をお掛けに私達の前にお現われになった途端、それまでは終始虚ろだった某君の瞳が急に輝き出したのである。
私はその少年の瞳の輝きを今でも忘れられない。

結局私達は…

社会が閉塞してくると、新しい風を吹かせるよりも大将みたいな人に全権を委ねたくなるのでせふか…

2011年4月9日土曜日

シティ・マラソンズ

三浦しをん、近藤史恵、 あさのあつこ著 文藝春秋社

画像

まぁ当初は近藤史恵氏が今の異常とも言えるマラソンブームの風景をどう描写しているかだけを知りたくて手に取った本書でした…
それに本書は某スポーツ用品メーカーの企画の一環と聴いていたので、それとてどうせ皇居ランナーのための販促プロパガンダのオブラートに包まれている筈と高をくくっていたのですが…

先行する共著の三浦、あさの両氏の作品が頗る面白く、それならばと本命であった近藤氏の作品も一気に読破しようと思った最中に例の余震は起きました。(結局停電によりゲームオーバー)
��結果的には山形では大きな被害には至らず、本書も翌朝には完読出来ましたが…)

読後に「そういえば今年の仙台ハーフ(マラソン)はどうなのだろう!?」と思ってググってみると、今年は已む無く中止するも、来年には大規模の市民マラソンに生まれ変わって再開するとのこと(らしい)…

トライアスロンの自由なスタイルにすっかり慣れきった人間でも「この大会に参加出来るのならランシャツ&ランパンの正装も致し方ない」と思っていたので若干拍子抜けした感はありますが…

「万人規模の参加者が日本全国から復興支援がてら来てくれる大会の方が絶対的な価値はある」と思った次第であります。
(※まぁ、個人的にも自分が払った陸連登録金の使途を思い馳せなくても済みますし…)

追伸
それにしても、こういう状況の中で佐渡トライアスロンが東京マラソン化しているのは何でだろう…
��TVの力ってまだ健在なの!?)
来年からは佐渡もJTU登録が義務付けられるみたいだし、益々もって何だかなぁ…

2011年4月8日金曜日

納豆のからし

使う人にとっては別に有難いと思うこともない「当然付いているモノ」という認識のような気がするが、僕のような使わない人間にとっては「無駄」以外の何モノでもない。
また、タバコが配給制になって吸いはじめ、結果的に習慣になってしまった人がいたように、何時の間にか(別に無くても良いんだけど)付けるようになった人も中にはいるだろう。

と、「そういえば僕が最近買う納豆には付いてないなぁ…」と気付き、思った次第であります。

何が何でも「自粛」に走るよりは、先ずはそんな「空気のようなモノ」や「無くても不自由はしないモノ」から見直してみる方がスマートな気がします。

2011年4月3日日曜日

喉元過ぎれば…

昨日までの3日間、南三陸町に滞在してきた。
(ボランティアのつもりだったが、結果的には余り貢献出来たとは決して言えないので…)

当地での体験は本当に別世界の出来事のようで未だに頭の中は混沌としているのだが、それを増長させる大きな要因には、たった一つ峠を越えただけの山形が(多少の物資不足はあるにしても)何事も無かったかのように平然としている状況がある。
※特に、選挙カーがガソリンだけでなく騒音まで撒き散らしているのには完全に参りマシタ…

まぁ今でこそ巷の雰囲気が忘れさせてはくれないだろうが、今後TVのCMが通常に戻り、スーパーの陳列棚にも空きがなくなる頃には、カップラーメンの買い貯めなどは何処吹く風、ガソリンスタンドに何時間も並んだことさえ忘れてしまう人も多いだろう。

そして徐々にメディアからの震災関連のネタが減るに従って、私達の関心も「被災者が今どのように奮闘しているか」や、「国民全体で節電や節水を心掛ける運動」から遠ざかってしまうことは想像に難くない。

現在、巷では「今、私達に出来ること」と盛んに叫ばれ、実際多くの支援やエールが届けられ被災者の方々の励みになっているとは思うが…

果たして、そんなムーブメントは何時まで続くのか…

「今後もずっと被災者への支援・応援を忘れず、未来永劫震災から学んだ教訓を絶対に風化させない」
ということも、耳にタコが出来たAC広告と同じくらい(或いはそれ以上)に重要だと僕は思う。

追伸
まぁ今回の場合には、特に夏場の電力不足は必至のようで、喉元を過ぎても熱さ(暑さ)は忘れさせてはくれないような気がしますけどネ…/(^^ゞ