2009年8月21日金曜日

先駆的に知る力

何時もの様に「内田樹の研究室」ブログの「ブリコルールの心得」というテーマから引用デス

(前説:武道に於ける「理」についてから話は始まる)
理だけ進んで身体がついてこないということはあまり起こらない。
というのは実際に身体能力の発現を阻んでいるのは大半が脳内のファクターだからである。
身体はいろいろなことができる。
意識化して操作する運動と数桁違うくらいの種類の運動をこなすことができる。
それができないのは脳が「人間の身体というのはこういうふうに動くものである」という思いこみによるリミッターをかけているからである。
それを解除する。
それを解除するには、実際に身体が「動いてしまった」という経験を経由するか、脳内のリミッターを解除するか、ふたつのやり方がある。
道場に出なくても、朝から晩まで武道の身体運用の理合について考えていれば、脳内のリミッターは少しずつ解除され、運動可能性はその分だけ拡がる。
もちろん、「解除されたかどうか」は実際に道場で動いてみないとわからない。
「仮説と実験、反証事例と仮説の書き換え」という自然科学の進め方とまったく同じである。
私のいまのところの理は「葛藤仮説」と「先駆性仮説」である。
「葛藤仮説」というのは同時に相反する二つの命令を身体に下すと、身体はその葛藤を解決するために「おもいがけないソリューション」を提示する、というものである。
例えば、「一気に斬りおろせ」という命令と、「最後の最後まで最適動線を探ってためらえ」という命令を同時に発令する。
すると、身体はこの二つの要請に同時に応えるべく、実に不思議な運動を工夫し始める。
その意味で身体は妙に「素直」である。
「そんなことはできません」というような賢しらを言わずに、素直に二つの命令を同時に履行しようとする。
「カツを食いたい」「カレーを食いたい」と同時にオーダーが入ったので、「カツカレーを発明しました」というような事態を想像していただければよろしいかと思う。
「先駆性仮説」というのはこのところの私の脳裏を去らぬアイディアであるが、人間は「どうふるまっていいかわからないときに、どうふるまっていいかを知っている」というあの潜在的な能力のことである。
レヴィ=ストロースが『野生の思考』に書いたように、「野生」の人々「ありあわせのもの」しかない、限定された資源のうちで生活している。
レヴィ=ストロースはそのありようを「ブリコルール」(bricoleur)と呼んだ。
ブリコルールは日常的には「日曜大工」のことである。そこらにあるありあわせの道具とありあわせの材料で器用に棚を作ったり犬小屋を造ったりする人のことをフランス語でそう呼ぶ。
野生の人たちは本質的にブリコルールである。

彼らの世界は資源的には閉じられた世界である。「ありもの」しか使えない。
通販で取り寄せたり、コンビニで買い足したりすることができない。
それゆえ、ブリコルールたちは「道具」の汎用性、それが蔵している潜在可能性につよい関心がある。
レヴィ=ストロースはこう書いている。
「彼の道具的世界は閉じられている。そして、ゲームの規則は『手持ちの手段』でなんとかやりくりするということである。すなわち、ある限定された時点で手元にある道具と資材だけで、ということである。加えてこれらはまったく雑多なものである。というのは、これらの道具と資材はいずれもその時点での企図とは無関係に集められたものだからである。というより、そもそもいかなる特定の企図とも無縁なのである。それらはストックを更新したり、増やしたり、あるいは何かを作ったり壊したりしたときの残滓でストックを補充したりする機会があるごとに無計画に収集された結果である。ブリコルールの持ち物は何らかの計画によっては定められたものではない。(・・・)それは道具性(instrumentalié)に基づいて定められるのである。ブリコルールたちの口ぶりを真似て言えば、彼らの道具や資材は『こんなものでも何かの役に立つことがあるかもしれない』(Ça peut toujours servir)の原理に基づいて収集され保存されているのである。」(Claude Lévi-Strauss, La Pensée sauvage, Plon, 1962, p.31)
私は大学院生のころにこの文章を始めて読んだ。
そして、どうしてレヴィ=ストロースが「こんな話」をその圧倒的な破壊力をもった理論書の冒頭に置いたのか、さっぱり意味がわからなかった。(『野生の思考』は戦後15年間、フランスのみならず世界の知的世界に君臨していた“帝王”サルトルの実存主義を一発で「破壊」した恐るべき書物だったからである)。
そして、30年間ずっとブリコラージュのことを考えてきた。
そして、ブリコルールたちは「先駆的な知」のたいせつさを教えているのではないかと思うに至ったのである。
ジャングルを歩いていると目の前にさまざまな「モノ」が出現してくる。植物であったり、動物であったり、無機物であったり、有機物であったり、人工のモノであったり、自然物であったり。その中のあるものを前にしたときにブリコルールは立ち止まる。そして、「こんなものでも何かの役に立つかもしれない」と言って、ほいと合切袋に放り込む。
なぜ、それがわかるのか。
ジャングルの中には「とりあえずその用途や実用性がわからないもの」がそれこそ無数にあったはずである。
どうして「今はその用途や意義が知れぬ」無数のオブジェの中から、とりわけ「それ」が彼の関心を惹きつけたのか。
私は彼がそうやって拾い上げた「モノ」はそれからあとのある時点で、必ず彼にとって死活的に重要な役割を果たし、「ああ、これをあのとき拾っておいてよかった」と嘆息をつく、という場面があったのだろうと思う。
そういう経験の繰り返しを通じてしか、「とりあえずその用途や実用性がわからないもの」の用途と実用性を先駆的に察知する能力は涵養されないであろう。
「どうふるまってよいか」を指示するマニュアルがない状況でも、「どうふるまえばいいか」を先駆的に知ることはできる。
できなければ生き延びることはできない。

いきなり大地震に遭遇するとか、ハイジャックに遭うとか、ゴジラの来襲に逃げまどうというような状況については「こういうときはこうふるまいなさい」という指示は存在しない。
真に危機的な状況というのは、「どうふるまっていいか」についての実定的な指針が示されない状況のことである。
けれども、それを生き延びなければならない。

そのためには、「清水の舞台から飛び降りる」ような決断をしなければならないのだが、あんなところからむやみやたらに飛び降りたらもちろん首の骨を折って死んでしまう。
「清水の舞台から飛び降りる」ことができるためには、「セーフティネットが張ってある場所」めざして飛び降りることができなければならない。
もちろん、舞台の上からはセーフティネットは見えない。
見えないけれど、見当をつけて「このへん」と飛び降りることのできる人間だけが、生き延びることができる。
針の穴ほどの生き延びるチャンスを「先駆的に知っている」ことがどれほど死活的であるか、私たちはあまりに豊かで安全な社会に暮らしているために、すっかり忘れてしまっている。
けれども、そのような能力はたしかに私たち全員に潜在している。それを開発する努力をしているかいないか、開発のためのメソッドを知っているかいないか、その違いがあるだけである。
私たちの時代の子どもたちが学ぶ力を失っているのは、彼らの「先駆的に知る力」が破壊され尽くしたからである。
「学び」は、それを学ぶことの意味や実用性について何も知らない状態で、それにもかかわらず「これを学ぶことが、いずれ私が生き延びる上で死活的に重要な役割を果たすことがあるだろう」と先駆的に確信することから始まる。

学び始める前の段階で、学び終えたときに得られる知識や技術やそれがもたらす利得についての一覧的な情報開示を要求する子どもたち(「それを勉強すると、どんないいことがあるんですか?」と訊く「賢い消費者」的な子どもたち)は、「先駆的な知」というものがあることを知らない。
彼らは「計画に基づいて」学ぶことを求めている。
自分が実現すべき目的のために有用な知識や情報だけを獲得し、それとは関係のないものには見向きもしない。
おそらく本人はきわめて効率の良い、費用対効果の高い学び方をしていると思っているのだろう。
だが、あらかじめ下絵を描いた計画に基づいて学ぼうとするものは、「先駆的に知る」力を自分自身の手で殺していることに気づいていない。
「先駆的に知る力」とはまさしく「生きる力」のことである。それを殺すことは緩慢な自殺に他ならない…


ブラボ~!

ブリコルール的な生き方こそ、これからの社会を生き抜くためのキーワードの様な気がします

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