2008年10月7日火曜日

社会生活に等価交換はない

例えば、仕事…

私達はつい自分の働きに見合った賃金を貰えない事に愚痴を言い勝ちですが、そもそも働いた分全てを労働者に分配したら、会社経営や資本主義経済は成り立ちません。
これは、世のニート君的発想で考えると明らかなのですが、彼等は自分が働いた(と思っている)分だけの代価が支払われてないと感じるから働かないのであって、私達がどんなに知恵を絞って彼等をTVゲーム機の前から誘き出そうとしても、土台無理な話なのです。(※ある意味、彼らこそ究極の合理主義者と言えるでしょう)
働いた分の何割かは社会に奉仕しているという発想がないと、今の様な閉塞感は一向に解消されないと私は思います。

例えば、恋愛や結婚…

恐らく、自分が施した愛情と同等のモノを、相手にも求めるから軋轢が生まれるのであって、実際はそんなに上手く行かない事は自明かと…。
小津安二郎の映画の様に
父:「結婚なんてモノは、そういうモノなんだょ…」
娘:「そうなのかしら…?」
父:「うん、きっとそうだょ…」
多分そんな感じの緩~い発想でないと、相手への鬱憤だけが溜まってしまうのではないしょうか!?

例えば、子育て…

とんびが鷹を産むことは先ずありません。
(まぁ、ごく稀に突然変異という奇跡もなくはないでしょうけど…)
貴方がどんなに金を掛けて習い事をさせても、所詮とんびはとんびです。
��まぁ逆に、子供にはアンパンマンだけを見せて彼等の想像力を養おうともせず、自分は携帯電話に夢中なママも如何なモノかと思いますけど…)
しかし、そんなのは未だ可愛い方で、自分が"こしらえた"作品に満足せずに…してしまう親こそ、正に子供を商品としてしか見ていない証なのかもしれません。

例えば、教育…

「勉強して→良い学校→良い会社」と考える事は、詰まる所、教育を施す事とその後の将来(のお金持ち)設計を天秤に掛けている訳である。
まぁ、立身出世を志す私学ならそれでも構わないのかもしれませんが、公教育にその図式を当てはめるから、「給食費は何で払わなくちゃならないの!?」とか、そもそも「勉強なんて何でしなくちゃならないの!?」というトンでも意見が出てくるのではないでしょうか!?
教育とは元々、「学びたい!」という人間本来が持つ自然発生的な営みな筈。
※憲法でワザワザその規定があるのは、基本的な人権だからです
そんな当たり前の事を、今では文部省の御役人は勿論、親や教師でさえ忘れているような…

そんな今の私達のマスターカードでは買えない様々なモノを、経済論理に当て嵌め等価交換しようとしている発想こそ、現在の様々な社会問題の根本原因ではないかと私は思います。

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