オリンピックの愚痴は尽きない。
前回はツールと五輪を対比したが、今回は五輪と紅白歌合戦の類似性を述べる。
★その1
多くの人々にとって、双方ともコンテンツ自体はいつ消滅しても全然困らない。
困るのはそれで儲けていた人々だ。
だから彼らは、鐘や太鼓を鳴らし、これでもかと言う位に騒ぐ。
そんなドンちゃん騒ぎに私達も惑わされ、ついつい気になって観てしまう。
そこで披露される「○○歌手のオッパイポロリ」事故や「○○選手の復活金メダル」速報に何となく浮足立ち、即座にスマホでその経緯を検索したり、翌日には知人とその話題で盛り上がる。
儲ける側としては、それで十分なのである。
★その2
紅白の歌と歌の合間の、ベタな三文芝居。
五輪の競技と競技の合間の、絶叫が売りの実況者と現役から天下りの知ったか振り解説者&ゲストタレントの床屋談義。
あれをイタいと思わないのは、(4)年に一度の茶番劇だからである。
あんな猿芝居を毎週観せられたら、たまったものではない(と思うのは私だけ?)。
まぁいずれにしろ、歌やスポーツを純粋に楽しみたいと思う人々は、ずっと前から音楽配信サービスや各種競技の専門チェンネルにシフトしている。
誰かに与えられたモノ(テレビはその代表格)で楽しむことに慣れきっている人々によって、これらのコンテンツは辛うじて生き残っているような、そんな気がする。
★その3
以下は五輪貴族の元祖とも言うべきクーベルタン伯爵の言葉である。
「人生で重要なのは、成功することではなく、努力することです。大切なのは、勝利したかどうかではなく、よく闘ったかどうかなのです」
※出所↓
如何にも、精神論好きの保守派や体育会系的マッチョ、昭和ノスタルジアの日本人が座右の銘にしたくなるような金言である(実際に、今ではこれが東京五輪を強行開催する大義名分になっているような…)。
まぁ確かに昭和の頃には「体格的に劣勢な日本人の、絶え間ない努力による金メダル」という図式があった(それも精神論の一つなのだが…)。
しかし現在はクールに世界で活躍する日本人アスリートが増えている(もちろん彼等も裏では絶え間ない努力はしているはずだが、その練習メソッドには科学的な裏付けがある。山下少年物語の頃とは次元が異なる)。
時代錯誤も甚だしい。
五輪は昭和と共に去り逝くべき存在だった
私は心からそう思っている。
その一方、紅白に関してはそこまでの大義はないにしても、「故郷に錦を飾る」という意味でプロ歌手にとっての大きな目標となっている。
それによって日本の音楽業界がガラパゴス化している現状にも一抹の不安を感じる(韓国人歌手がどんどんアメリカ進出しているのとは対照的である)。
それはたとえば某アイドル歌手の「(紅白出場によって)田舎のお祖父ちゃんに喜んで貰えたら光栄です」というコメントに如実に表われている。
紅白にはもうそれだけの存在価値しか残ってない
私は心からそう思っている。