★Take1
昔から私達の社会で語り継がれている説話には、玄関先に突然訪れた乞食をどう扱うかの題目が多数あります。その大概は乞食の正体は実は偉大な聖人で、氏を冷遇した欲の深い人間が奈落に落ち厚遇した情の深い人間が更に徳を積むというあらすじです。
そんな伝承が語り継がれることも少なくなった無縁社会の今、私達に沖縄の米軍基地や福島の瓦礫をどうするかという課題が投げ掛けられています。ここで考慮すべきは「米軍基地は沖縄、原発は過疎地へ!」と集中させたのは私達全体の問題であり、決して突如現われた疫病神ではないということです。にも関わらず私達は昔からの因習に従いそれ相応の施しをして自分の住む村から立ち去って貰う所謂「厄介払い」で片付けようとしている気がします。「絆」と盛んに叫ばれながらも基地の移転先や瓦礫の請負先として名乗り出る町が殆ど無いのがその象徴でしょう。
さてそれで良いのでしょうか!?過去の因習に従えばそれで良いのかもしれません。しかし時はこれまでにない転換点に来ていると私は思います。
テレビニュースで観た情報を頼りに「原発反対」と唱えるのは簡単です。しかしいざ貴方の玄関先にそんな疫病神が来たときにどう行動するか!?先ずはそこから考えてみる必要があるのではないでしょうか。
※2012/02/22
★Take2
私達の生活の中には突然玄関先に現れた盗賊や乞食にそれ相応の施しをして立ち去って貰う、所謂「厄介払い」という因習があります。
それは外敵や疫病などから自分の家族や村を守る手段が他になかった過去の時代では致し方なかったのかもしれません。
しかし平和で豊かな社会で生きる現代の私達が、そんな振舞いを沖縄の米軍基地や被災地の瓦礫に対しても平然としている実態が私は悲しくて仕方ありません。
ここで私達が気付かなければならないのは、これらの問題は基地や原発を見て見ぬ振りをしてきたツケが廻ってきただけなのに、それがあたかも偶発的に起きた災厄のように考えていること、そして厄介払いでその場凌ぎが出来る域は既に超えているのに、それでも国や東電を責めるだけで各々がその解決策を考えようとは全くしていないことです。
巷によくある昔話のように、実際は偉大な聖人である厄病神を厚遇して更に徳を積む素敵なお爺さんになるのは正直かなり難しいです。
しかしそんな疫病神を冷遇して奈落に落ちる意地悪爺さんにならないよう心掛けることはそんなに難しくはありません。
だとすれば恐らく基地移転や瓦礫搬入を頑なに拒否する人はそんな昔話の教訓を忘れているのでしょうか。
私はそんな今の社会風潮が悲しくて仕方がありません。
※2012/02/27
★Take3
私は沖縄の米軍基地や被災地の瓦礫の問題を、厄介払いという昔ながらの因習で片付けようとしている今の風潮が残念でなりません。
これらの問題は私達がずっと見て見ぬ振りをしてきただけであって、決して突然目の前に現れた厄介モノではありませんし、そう扱う資格もありません。
それに仮に厄介払いをしようにも追い払う先がもはや日本の何処にもないという現実を、沖縄や被災地を除く多くの人は未だ気付いていません。
にも関わらず私達は基地や瓦礫を腫れ物のように忌み嫌い、まるで他人事のように国や東電に責任転嫁ばかりし、基地移転や瓦礫搬入を頑なに拒否し続けています。
勿論私達には自分の安全や安心を求める権利があります。
しかしその前提には沖縄や被災地の人々の同じ権利を尊重する義務が伴うことも忘れてはなりません。
今後大事なのは、私達全体が納得出来る本音の妥協策を私達自身で見つけ出すことあり、厄介払いや国や東電への丸投げだけはすべきではないと私は思います。
※2012/03/06
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